LOGINエステル・ヴェイルの短剣が、セレーネの喉へ触れていた。
ほんの少し皮膚を切っただけらしく、流れている血は一筋でしかない。それでも、その赤が妹の白い首筋を伝っていくのを見た瞬間、私は考えるより先に一歩前へ出ていた。
「リア、止まれ」
カエルの声が飛んできた。
「止まっています」
「一歩出た」
「一歩だけです」
「その一歩を止まれと言っている」
こういうときまで細かい。
けれど、カエルのほうが正しい。
私はそこで足を止め、両手を見える位置まで上げた。
「エステル夫人、まず短剣を少しだけ離してください。あなたが本当に欲しいのは私でしょう。セレーネを傷つければ、その時点で私はあなたの要求に従う理由を失います」
「お姉様
第87話 刻印が聞こえないまま、私は初めて自分から彼に口づけました 私がカエルと初めて口づけをした日の朝、王都から届いた最初の公文書には、「真正番であることを国民へ証明するため、陛下とリア・ヴェイル監査官は速やかに感情共有を完全再開し、王妃候補として正式な番誓約式を行うことが望ましい」と書かれていた。 昨日までなら、こんな馬鹿げた要求を読めば腹を立てるだけで済んだと思う。 ところが今朝の私は、その一文を読んだ瞬間に腹を立てるのとほとんど同時に、昨夜、部屋の前でカエルの手を離すことを少し惜しいと思った自分まで思い出してしまった。 そのせいで、怒ればいいのか恥ずかしがればいいのか分からなくなった。「お姉様、さっきから同じところを四回読んでるけど、文章が難しいの?」 朝食の席でセレーネに言われ、私はようやく手元の公文書から顔を上げた。「文章自体はかなり単純です。むしろ単純すぎるから問題なんです」「じゃあ、どうして四回も?」「内容に腹が立っているので、反論文を書く前に読み直しています」「ふうん」 セレーネは疑わしそうに私の顔を見たあと、向かいに座るカエルへ視線を移した。「陛下、何か知ってる?」「俺に聞くな。今朝はまだまともに話していない」「本当に?」「朝食前に廊下で会って、『おはようございます』と『おはよう』しか言っていない」「お姉様が陛下に対して『おはようございます』しか言わなかったの?」「それくらい普通でしょう」「最近なら、そのあと『昨夜は眠れましたか』『昨日見た映像の後遺反応はありませんか』『朝食はちゃんと食べましたか』くらい聞きそうなのに」 かなり失礼な分析だった。「私を何だと思っているんです?」「心配性なのを仕事だと言い張るお姉様」
第86話 感情共有を戻す前に、私たちは「戻さない選択」も残すことにしました 兄君を抱きながら泣いている三年前のカエルを映像で見た翌朝、白狼封印を診察していた老医師から「現在の状態なら、閉鎖している番共有を段階的に再開できます」と告げられたとき、私は自分でも意外なほど嬉しくならなかった。 もちろん、悪い知らせではない。 外周封印が部分的に破れた直後の私は、カエルから流れ込む感情や疼痛だけでも白狼核が反応し、最悪の場合には再び制御を失う危険があった。そのため生命力、疼痛、情動の共有を一度すべて閉じ、真正番としての根だけを残した状態で過ごしてきたのだから、再開可能という診断自体は私の身体が安定した証拠だった。 それなのに。「全部を一度に戻す必要はないんですよね」 私が最初に尋ねると、老医師は少しだけ笑った。「リア監査官なら、まずそこを聞くだろうと思っていました。第一原典で確認された古い接続方式なら、生命補助、急性危機警報、疼痛共有、情動共有を別々に管理できます。現行番制度では完全接続を正常状態としていますが、本来は本人たちが必要な機能だけ選ぶ仕組みだったようです」 カエルが診察室の向かいで腕を組んだ。「逆に言えば、今のまま何も戻さないという選択もできるのか」「医学的には可能です。真正共鳴の根幹そのものを切断しているわけではありませんから、共有機能を閉じた状態でも生命維持上の問題はありません」「白狼封印への負担は?」「現在はむしろ閉鎖状態のほうが安定しています。ただし、限定再開しても危険域へ入る可能性は低いところまで下がりました」 つまり。 戻せる。 でも。 戻さなければならないわけではない。 その違いが、以前なら存在しなかった。「どうしますか」 老医師に尋ねられ、私はカエルを見る。 彼
第85話 三年前、カエルは月鏡の前で兄を抱いていました 三年前の夜、カエル・ドラヴェンが月鏡の前で何をしていたのかを示す映像が復元できたという知らせが届いたとき、私は嬉しいとは思わなかった。 むしろ最初に思ったのは、これを本人へ見せていいのだろうか、ということだった。 カエルが失っている三日間は、単に「事件について覚えていない時間」ではない。その始まりには兄の死があり、その直後には急な王位継承、王血月脈の過負荷、高濃度の同期薬、記憶安定処置、そして本来なら数年後だったはずの真正刻印形成が重なっている。 もし映像の中へ、自分が兄を傷つけている姿があったら。 もし逆に、助けようとして失敗している姿があったら。 どちらであっても、見なかった頃の自分へは戻れない。「先に私たちだけで内容を確認することはできます」 ユアンが言った。「陛下本人へは、監査上必要な部分だけ文章で説明する方法もあります。映像そのものを見る必要はありません」 私は頷いた。「それも選択肢として出しましょう。ただし私が先に見た場合、あとから説明するとき無意識に表情へ出る可能性があります」「そこまで気にします?」「この人、最近かなり私の顔を読めるようになっているので」 隣にいたカエルが呆れた。「本人を目の前にして、俺の映像をどう扱うか勝手に相談するな」「では聞きます。三年前の月鏡関連映像が部分復元されました。あなたと、兄君と思われる人物が映っています。ただし内容はまだ私も見ていません。あなた自身が先に見る、私たちだけで確認して必要事項を文章で伝える、映像を見ずに解析結果だけ聞く、今日は何も確認しない、この四つから選べます」 カエルは私を見た。「お前も見ていない?」「はい」「俺が見ないと言ったら?」「
第84話 監査官を殺すより、監査結果を信じられなくすればいい 私が一度も書いた覚えのない文章へ私自身の署名が付され、「古代原典の一部は王権制限を目的として意図的に再構成した」と記載された偽造頁が、独立鑑定へ送る資料の中から発見されたという報告を受けたとき、最初に感じたのは恐怖より怒りだった。 誰かが私を殺そうとすることには、ここ数週間で嫌になるほど慣れてしまったと言えばおかしな話だが、襲撃者なら捕まえられるし、毒なら成分を調べられるし、刻印を偽造されたなら亀裂を見つけられる。しかし、「リア・ヴェイルは政治目的のため古代資料を書き換えた監査官である」という疑いを一度社会へ撒かれた場合、それを完全に回収することは、焼かれた紙を復元するよりずっと難しい。「問題の頁を原本から隔離し、誰が最初に触れたのかを時刻順で全部出してください。それから私の署名について、通常の筆跡照合だけではなく、月印認証と使用されたインク、紙の年代、押印圧まで分けて調べます」 私は王都から送られてきた複製映像を見ながら指示を出した。 ユアンがすぐ隣で補足する。「偽造頁が見つかった箱そのものは、北境から直接発送した複製ではありません。北境原本を王都の中継監査所で再複製し、独立鑑定員へ配布するため十二部へ分けたうちの一部です」「つまり、北境を出たあとに混入した可能性がある?」「あります。ただし北境で作成した複製そのものが差し替えられていた可能性も、まだ排除できません」「では、私たち側の保管記録も全部止めて確認します」 セレーネが困惑した顔をした。「でもお姉様、原本はここにあるでしょう。偽造頁と見比べれば、どっちが本物かすぐ分かるんじゃないの?」「私たち自身は分かります」「だったら」「外の人も同じように信じてくれるとは限りません」 私は自分でも嫌になるほど、その言葉を冷静に言えた。「私が『こちらが本物です』と示して
第83話 マルセル・モーンを探したら、三か月前まで死者のふりをしていました マルセル・モーンという人間について私たちが確実に知っていることを一枚の紙へ並べてみると、十九年前には月印監査院の医療中枢へ所属し、五歳だった私の白狼封印処置に立ち会い、十一年前には正式な研究職を離れているにもかかわらず、その後も七年前、三年前、そして三か月前に至るまで、北境第三静養所で彼の旧医療権限と一致する認証が使用され続けていたという、普通に考えればかなり不自然な人物像が出来上がった。 さらにノアが覚えている医療担当Mは、年配で白髪が多く、青い目をしていて、注射が上手く、左手に傷があり、触られると手が冷たかった。 現存するマルセルの古い職員写真にも、左手の甲から手首にかけて傷が確認できる。 それだけなら同一人物を疑うには十分だが、認定するには足りない。「そして、ここへ新しい情報が加わります」 ユアンが王都から取り寄せた戸籍記録を机へ置いた。「マルセル・モーンは、書類上では二年八か月前に死亡しています」 私は思わず顔を上げた。「二年八か月前?」「はい。三年前の事件より四か月ほど後です。死亡場所は王都東区の個人療養院で、死因は月脈性心不全、享年六十八歳。遺体確認者は療養院医師一名、監査院元職員一名、そして遠縁の親族一名となっています」 セレーネが眉を寄せた。「それなら、エリアス院長が四年前を最後に会っていないと言っていたのはおかしくないの?」「叔父と甥だから、死ぬ前に必ず会うとは限りません」 私は答えた。「ただ、院長が叔父の死を知っていたかは聞く必要があります」「知らなかったら、それも変じゃない?」「かなり変です。でも、家族関係が疎遠だった可能性もあるので、まず聞きます」 カエルが隣から死亡証明を覗き込んだ。「遺体は埋葬されてい
第82話 母の記録には、カエルが三年前に死ぬ未来が何通りも残っていました カエル・ドラヴェンが本来の自然接触時期まで私と出会わなかった場合、死亡する確率は六八パーセントだったという月鏡の記録を初めて見たとき、私は無意識のうちに「三年前の誰かが、カエルが殺される未来を知っていたのではないか」と考えていた。 けれど、第零資料室で月鏡そのものが未来を一つだけ見通す神具ではなく、血統、月脈、生活環境、過去の選択から膨大な未来候補を計算する装置だったと分かった以上、その六八という数字についても、誰か一人に殺される確率なのか、病死なのか、戦死なのか、それとも複数の危険をまとめた数字なのかを分けなければ、また自分たちに都合のいい物語を作ることになる。 そこで私は翌朝、眠る母セラの中へ保存されている「R.V.未来記録」そのものではなく、その外側へ複製された月鏡演算索引だけを読み取る許可を申請した。「昨日と同じ制限でお願いします。母本人の人格記憶へは入らず、月鏡から受信した未来候補の目録と、その計算条件だけを確認します」 老医師は構造図を見ながら頷いたものの、今度は少し難しい顔をした。「昨日の外部証言殻よりは一段深い場所へ入ります。セラ夫人自身の記憶には触れませんが、月鏡記録と本人神経系の境界に近いため、反応が上がった場合は自動停止させます」「母が目を覚ます可能性は?」「この処置だけなら非常に低いでしょう。ただし、以前お伝えしたとおり、セラ夫人の内部記録には現在二十四歳のリア監査官に関する更新まで届いていますから、月鏡側があなたを認識して何らかの応答を返す可能性までは否定できません」 その言葉を聞いたカエルが、通信鏡の向こうから眉を寄せた。『俺の王血は近づけないままでいいんだな』「はい。あなたは地上から通信参加です。昨日と同じく保存区画側へ映像も音声も返しません」『それなら従う。ただ、今回は俺自身の死亡予測を読むんだろう。内容によっては途中で俺にも選ばせてくれ』







